忘れられた豚輸送発案者 嘉数亀助

 うるま市の合併10周年記念事業として音楽劇「海はしる、豚物語」が企画された。大戦で壊滅的被害を被った沖縄を救おうとハワイの県系移民が送った豚の物語「海から豚がやってきた」のリニューアル版である。機雷の浮かぶ海を命がけで渡った勇士7人の活躍はもちろん、豚輸送の全容が音楽劇で表現される。序盤、県系二世米兵が移民の歴史から沖縄戦までを語るシーンが今回新たに加えられた。沖縄県平和祈念資料館企画や琉球新報社連載「奔流の彼方へ」から多くのヒントをいただいたことに感謝したい。

 ミュージカル「海から豚がやってきた」は、2003年に初演後、ハワイ、ロス公演を経て、2006年の世界のウチナーンチュ大会公式公演を以て休演していた。ただ、その流れは途切れず、県内の小学校学芸会で「海豚」が定番化し、二年前にはこの史実が全国の高校英語教科書に採用された。「ナビィの恋」の中江裕司氏制作のBS特番「豚の音がえし」も企画放映され、豚のお返しに550丁の楽器を贈るプロジェクトを立ち上げたBEGINとうるま市との共同企画「豚の音がえしコンサート〜奇跡は巡る〜」も実現した。史実の継承を訴える機運の盛り上がりはやがてハワイの豚記念碑建立事業へと結びついていく。各人各様の取り組みがこれだけの拡がりをみせたのは、この逸話の魅力がそれだけ人々を惹きつけてやまないということなのだろう。

 「海豚」公演をやめてしばらくすると、かすかながら異音が届くようになっていた。昨年7月に「海豚」実行委員会が結成されるとハワイへ飛んだ。手当り次第に関係者を訪ねては資料を集め、時間の許す限り話し込んだ。その調査行でどうしても会っておきたい人がいた。嘉数亀助(高嶺村=糸満市出身)の娘メイ大城である。嘉数亀助は沖縄に豚を送ることを発案した本人。十代でハワイへ渡り、苦学の末に金融会社を興した嘉数は、担保財産がなく借金ができない県系移民に融資してその社会進出をあと押しした。経済環境も整ってその子弟が行政や教育界に入っていくと一時期、ハワイ州教公2団体のトップ交渉で相対した2人がそろってウチナーンチュという珍事もあったという。さきごろのイゲ州知事誕生などは沖縄移民進出譚の最たるものであろう。嘉数はある意味沖縄の戦後復興とハワイ県系移民社会進出のキーパーソンだった。異音は「嘉数を忘れているよ」というメッセージだったのだ。

 メイ大城は会うなり、「今回の海豚公演は、豚と魚の物語にしたらいい」と古諺を示した。「人に授けるに魚を以てするは、漁を以てするに如かず」。困窮した人に魚をあげればそれは1食にすぎないが、魚の取り方を教えれば彼は生涯食っていけるという教えだ。養豚の研究家でもあった嘉数は戦後、衣類などの救援物資送付に力を注ぐ一方で、どこか物足りなさも感じていた。豚は食糧としての役割はもちろん、その排泄物は畑を潤し、作物はまた人の食糧となっていく。豚は食連鎖の中心にあり、豚が沖縄の日々の暮らしを取り戻すための鍵になることを知っていたのだ。彼は沖縄に魚の取り方を教える、つまり自立のための道具を送ることを主張した。沖縄が自立するための道具、すなわち釣り竿とは豚のことである。     
 嘉数は豚輸送を成功に導いたが、その名前は次第に忘れられた。そうなったのはそれなりの遠因がある。彼は終生一貫して表舞台に出ることを嫌った。宴会にも出ず、祝辞や挨拶もせず、お世辞下手な社交性ゼロの人。けれどいつも縁の下の力持ちに徹していたという。銀行の取締役の話が来ても叙勲の打診にも、答えは決まって「ノー」だった。沖縄の惨状を誰よりも憂い、人知れず愛情を注ぐ嘉数の人となりを知ってひとつだけ、豚輸送に必ずついて回る美談「沖縄に豚を送り届けたら一切を忘れてしまおう」を思い出した。こんな美談は、実利実行あるだけで対価の一切を求めない嘉数ならではの空気感がそうさせたのではないか、そんな気がしている。今般、嘉数の登場で舞台に厚みが加わった。
音楽劇「海はしる、豚物語」制作統括 浜端 良光 

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