埋もれかけた史実

第二次世界大戦後、米軍占領下の沖縄の家々から豚が消えた。すさまじい戦火によって多くの人々が死んだ。歴史を伝える文物も失われ、ウチナンチュの食を支えてきた豚もいつの間にか数えるほどになってしまった。

「ありったけの地獄」とも形容された沖縄戦

 1945年、第二次世界大戦下の沖縄は国内で唯一の住民を巻き込んだ地上戦を経験しました。800万発もの砲弾は鉄の暴風となって地上に降り注ぎ、地形を変えるほどの砲火によって形あるもののすべては焼き尽くされ、12万人の住民を含む20万人余が亡くなりました。

島に人影なく、フールに豚なし…

沖縄の惨状は、県系二世米兵比嘉太郎の戦場レポートによっていち早くハワイの沖縄移民たちに届けられました。

沖縄を救え!立ち上がったハワイの人々

悲報を受けた世界中の沖縄移民はふるさとを救うため衣類や食糧、薬品など大量の救援物資を送りましたが、 ハワイの「布哇連合沖縄救済会」が贈ろうとしたのは、「生きた豚」でした。

生きた豚を沖縄へ!太平洋横断 豚輸送計画

豚を購入するための資金造成活動はハワイ全島を舞台に展開され、5万ドルを超える資金が集まりました。

海を渡った七勇士

太平洋を渡り、沖縄へ豚を届けろ!

1948年8月31日、550頭の白豚を載せたジョン・オーウェン号は、ハワイから渡った7人の豚付添人とともに米国西海岸のポートランドを出港します。3度にわたって遭遇する嵐や日本軍が敷設し、漂流した機雷の危機を乗り越え9月27日にうるま市勝連のホワイトビーチに到着しました。

(上列右から) 上江洲易男(外枠) 安慶名良信 島袋眞栄  
(前列右から)渡名喜元美 宮里昌平 山城義雄 仲間牛吉    

アメリカポートランドより出航する

旧日本軍の設置した機雷をよけながらの危険な航海をしいられる。
三度の嵐に見舞われながら沖縄を目指した。

ホワイトビーチ(勝連平敷屋)へ豚が到着する・・・

陸揚げされた豚はすべての市町村に公平に分配されて周到な繁殖計画のもとに増え続け、4年後には10万頭を超えました。これを境に沖縄の食糧事情は改善され、多くの人命が救われました。(写真:歓迎会に集まった観衆)

豚の到着に歓喜!盛大な歓迎会が催された

豚は県内全市町村の農家に公平に分配された。大戦直後千頭ほどだった豚は3年後には10万頭まで回復。沖縄の自立復興の大きな礎となった・・・